2-6 堀江
3. 何故今、南船場・堀江なのか
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大阪ミナミは、徳川期に本核的に街づくりに着手され、掘割が新たに進められた。1615年に、南堀川(道頓堀川)が、開削された。1657年頃には、船場、島之内、西船場の地が、すでに区画整理がされていた。1679年頃の資料によると、小間物屋・古書店・古道具屋などがすでに営業していた。元禄期に、高麗橋に越後屋(三越)呉服店が開店し、そこに多くの呉服店・両替商などが集まってきた。その後新町に廊ができ、順慶町通りが賑やかになり、特に夜店
が賑わいを見せた。一方、道頓堀に芝居小屋が建ち並ぶようになると、廊と芝居小屋に繰り出す人々が心斎橋筋を通り出し、人の流れは南へと移り始めた。1726年には大丸ができ、1800年頃には心斎橋南詰まで小売店がつらなってきた。
そして明治期には、業種も増えて、1900年頃の資料によると、心斎橋筋には、本屋20軒、舶来商15軒、時計商18軒、洋傘商11軒、洋反・洋服商5軒があり、文明開化が浸透していた。中でも舶来商、時計商は心斎橋を「遊歩する人々」の好奇のまなざしを集めた。というのは、時計店は競い合って塔屋に時計盤を掲げる西洋風店舗を建立したからである。大丸、小大丸、十合といった呉服店も、正札販売・陳列販売を開始し、ショーウインドや陳列ケースをそなえた新しい店構えへ改装して競い合った。
大正7年(1918年)には、大丸は、ヴォーリスの設計により四階建ての百貨店を開業するが、二年後火災により焼失した。大正13年に、丹平ハウスが開店する。この店は、アメリカのドラッグストアを模したデザインの店で、薬以外に、写真用品、化粧品、キャンディー等も扱い、また飲食の楽しめるソーダファンテン、美容室、写真スタジオ、洋画研究所まで入店していた。そして女性客や若者を意識したアメリカ風の店が続々と現われ、呉服店も消費の殿堂である百貨店に変貌した。アールヌーボーやアールデコの新しい建築様式でデザインされた百貨店や店舗も出現し、お洒落をしながらショッピングやウインドショッピングを楽しむ人々が増えてきた。モボやモガなどの洒落たファッションに身を包んだ若者の「心ブラ」がここに誕生した。
昭和に入ると、1933年(昭和8年)に梅田から心斎橋までの地下鉄が開業、翌年には難波まで延び、1937年には御堂筋も完成して心斎橋も姿を変えていった。大丸百貨店は、1933年にヴォーリスの設計によりアールデコのデザインで7階建ての現在のビルに再建された。その二年後そごう百貨店も、村野藤吾の設計によりモダニズムのデザインで新しいビルを完成した。心斎橋筋は、オシャレなファショッションストリートとして、若者の人気のファッションブランドのショップが軒をならべるようになった。
このように、心斎橋は文化・芸術・ファッションの発信地として、時代の最先端の中で変化しきた。江戸時代には、書物が大衆の物になるにしたがって書肆の街として発展し、明治に入ると文明開化の象徴として時計・舶来品の店が多く開店し、また大丸をはじめとする呉服店も繁栄した。大正昭和になると、デパートが開店し「心ブラ」を楽しむ人でにぎわった。バブル期にはジュリアナなどのディスコなども登場し、いろいろな業種の店舗がデザインを競い合っていた。最近も若者がゲームコーナーやカラオケスタジオで、エンジョイし、商店街を闊歩している。しかし、心斎橋筋の老舗が消え、ゲームコーナーやパチンコ店に姿を変えて派手なデザインの店が並んでいる。これも時代の流れと言えばそれまでだが、何か落ち着いて、「心ブラ」を本当に楽しめなくなっているのはさみしい話である。
心斎橋の年表
年代
内容
1615年
道頓堀川開削
1657年
船場、島之内、西船場区画整理
1672年頃
新町に廊、道頓堀に芝居小屋が集まる
1679年頃
小間物屋・古書店・古道具屋などがすでに営業していた
1726年
大丸開業
1800年頃
心斎橋南詰まで小売店がつらなってきた
1846年
石原時計店開業
1881年
駸々堂書店開業
1888年
三木楽器開業(オルガン販売)
1900年頃
本屋20軒、舶来商15軒、時計商18軒、洋傘商11軒、洋反・洋服商5軒となり、文明開化が浸透していた
1918年
大丸4階建てビル竣工
1923年
丹平ハウス開業
1933年
地下鉄御堂筋線開通、大丸7階建てビル竣工(ヴォーリスのデザイン)
1935年
そごうビル竣工(村野藤吾のデザイン)
御堂筋から堺筋までの間で、長堀通り側の1・2本目を鰻谷と言われていたが、アメリカ村に対して、ヨーロッパ村とも呼ばれている。1970年代に心斎橋筋にソニータワー・心斎橋パルコが開店し、この地区にグルメやファッションの
達人が隠れ家的に使用する店舗やオシャレな店舗デザインのバーが点在するようになった。バブル期には、DC(デナイナーズキャラクター)ブランドが、オンリーショップを出店して話題となった。安藤忠雄氏のデザインのショップ(写真右)が開店するなどして話題を集めた。この街はアメリカ村に集まる若者よりは、一線を画した20代後半から30代前半の世代のお洒落な大人の街である。ヨーロッパ村は、昭和57年頃からそう呼ばれるようになったが、その頃からギャラリーがふえ、この街独自の文化の香りを醸し出している。またこの地区の店舗はそれぞれこだわったコンセプトを主張したデザインのショップも多く、自分のスタイルを持つ人が集まって来るし、この街を定点としている人も少なくない。
アメリカ村は、1969年に「ループ」と言う喫茶店の開業が起点になったと言われている。この喫茶店に、ファッション関係の人々やカメラマンが出入りするようになり、多くのクリエイターたちが集まるようになった.そしてアメリカ、特に西海岸の文化に影響を受けた若者たちが、旅行社が企画したアメリカ西海岸ツアーに参加し、その旅行で持ち帰った古着・雑貨・中古レコードを商品にし、アメリカ村に出店したのが始まりである。そしてサーファーショップや古着ショップが次々とオープンした。当初は三角公園周辺だけであったが、その後、周防街通りに沿って御堂筋まで延び、黒田征太郎のウオールアートやトムズハウスや自由の女神像をビルの屋上につけたファッションビルなど、街のランドマークも登場した。1990年にはタワーレコードがオープン、1993年には旧大阪市立南中学校跡地にファッション店を多く集積し、店舗デザインにも力を入れたビッグステップが誕生した。そして全国から修学旅行生がこぞって訪れる場所となり、10代の若者でいつも活気のある街に変わった。
アメリカ村がこのように発展した理由は、おもに三つ考えられる。一つは、三角公園の存在がある。若者が三角公園に集まり、ミュージックや個性的なアートを競い合い、若者の表現のステージとなり、その周辺にいつも若者が集まるようになったことである。また、最近では漫才・手品を披露する芸人の卵、ストリー
トミュージシャン、ラップダンサーなどがアメリカ村のニューカルチャーを生みだそうとしている。二つ目は、若者が始めて商売を始めるケースが多いと言うことである.特にフリーマーケットが多数存在し、そのフリーマーケットで成功した人が店を持つと言う流れがあるようである。だから5坪から10坪の小さなショップが数多く、点在している。三つ目は、核施設ビッグステップの存在が上げられる。ビッグステップには、ディズニーショップをはじめとする店舗デザインもトレンドなナショナルブランドのショップが入店し、アメリカ村の商品構成に幅を持たすことができた。またビッグステップの建設当時は階段と吹き抜けに大事な部分を取られ、肝心の商売する場所が隅に追いやられショッピングビルとしては成り立たないと言う批判も聞かれた。しかし、今にしてみれば何もない階段・吹き抜けのユニークな空間があったから、第二の三角公園、アメリカ村のシンボルとなり得たのかもしれない。若者たちはこのビッグステップの大階段に座ってコミュニケーションを図り、ショッピングを楽しんでいる。
アメリカ村の年表
年代
内容
1969年
カフェ「ループ」オープン
1970年
アメリカ西海岸ツアー「アメリカ夏の陣」企画
1970年
サーファー・古着ショップオープン(約20店)
1982年
カフェ「パームス」出店 ホテル日航大阪オープン
1983年
無印良品オープン
1989年
三角公園横にブルータスビルオープン
1990年
タワーレコード出店
1993年
ビッグステップオープン
199/年
OPAオープン
長堀通りは昔、長堀川と言う本当の河が流れていました。それが30年前に埋め立てられ地下駐車場となり、1997年(平成9年)にその地下が地下街「クリスタ長堀」としてオープンした。1990年には、国際花と緑の博覧会のために整理された地下鉄長堀鶴見緑地線が開通し、心斎橋に東西からの集客が可能となった。この地下街のオープンを契機として、1999年に、大阪の市内では始めて東急ハンズ心斎橋店が開店し、これに続いて御堂筋・長堀通りに面して、「シャネル」「マックスマーラ」「ヴェルサーチ」「ヴィトン」「カルティエ」「アルマーニ」などのヨーロッパ高級ブランドが次々とオープンした。これは、バブル崩壊により銀行・大企業のリストラのために、
メインストリートの店舗およびショールームを閉鎖したことにより、高立地の商業地に空きスペースが増加したことが大きな原因である。
御堂筋に面したビルも空きスペースが増加し、活性化が求められている。そこで最近、大阪市・大阪商工会議所・近畿建設局が一体となって大改造に乗り出そうとしている。パリのシャンゼリゼ通りに習って「御堂筋沿いのビルの一階部分を店舗で統一する」といった案が浮上している。具体的には、オフィースや銀行が入っている御堂筋沿いのビルの一階部分をブティックやカフェなどの店舗として使ってもらうようにする。また、ビルの外壁を煉瓦タイル貼りで統一するなどが考えられている。
船場は、江戸時代に天下の台所として、近代には、経済商工都市大阪の中心として繁栄し、現在も日本有数の企業がオフィースを連ねている。昔、東西を東横堀川と西横堀川に、南北を長堀川と土佐堀川で囲まれた地域を船場と呼ばれていた。南船場一丁目_四丁目は以前、順慶町通り、安堂寺橋通り、塩町通り、末吉橋通りと呼ばれていた。順慶町通りの西は新町廊に通じ、昔から賑やかであり、特に夜店が賑やかであった。安堂寺橋通りは、金物屋が多く、関西初の蘭学熟もあった。
南船場は、もともとアパレルやデザイン関係の事務所多かったエリアで、以前からビルの一階には、ブティックやお洒落な喫茶店が見られた。バブル期には、イタリアのデザイナーを起用し、外壁に観葉植物を使用したユニークなデザインのオーガニックビルも誕生した。その後、南船場のビルの1階にはオープンエアーレストランやブティックがぽつりぽつりと増え、勤め帰りのOLや業界人が多く見られるようになった。クリスタ長堀が出来てから、ユニークな店舗デザインのセレクトショップやカフェレストランの数が急増している。
今から300年前、堀江川(今で言う北堀江と南堀江の境目、周防町通り)が開削され、それに伴い廻船問屋などが生まれ、材木・銅吹・藍などの商工業が発達した。そして戦前には、花街として栄え新町の流れを受け、お茶やさんで華やかな時代も合った。しかし、大空襲で焼け野原になり、その後疎開していた人が帰り、現在の立花通りが作られた。立花通りは以前、家具の町としても有名であった。
堀江には、依然からアパレル・デザイン関係の会社が多く、4・5年前からそのアパレルメーカーが
ショールーム兼用のショップを造りはじめた。筆者も堀江のビルの一室に事務所を構えて10年以上なるが、そのビルの一階のテナントは、5年前に古着ショップがオープンし、その後アフリカ雑貨、ボーダーショップと変化した。3年前に立花通りに、お洒落な若者の間で有名な原宿のショップ「APC」が出店したのを、契機として堀江付近を若者が、雑誌を片手に歩く姿をよく見かけるようになつた。その後も東京発のブランドショップの出店が続き、ヒステリックやジャーナルスタンダードなどが旬なデザインのショップが軒をならべてきた。
当サイトでランキング1位のページです。是非ご覧ください。物販店、飲食店、百貨店等の店舗レイアウトについて説明します。店舗設計における平面計画の重要性(売り上げアップ)について説明します。
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看板とは何か。写真で名称役割を説明します。店舗設計において、特に重要です。
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